フェルメール展、行ってよかった。
話題のフェルメール展に行って来た。いくつかの作品は現地に見に行ったことがあるし、入場料も高いし混んでるだろうし、以前の「真珠の耳飾りの少女」の展示はクソだったので、どうしようかと悩んでた。
35作品しか現存しないと言われているフェルメールの作品が9点も集まるのは、ほんとうに驚きで奇跡である。びっくりした。
9点も並ぶというのは前例のないすごいことだと思うが、逆に、それ以上でもなければそれ以下でもないな とも感じてしまった。画集なら全作品並んでいるじゃないか!? さらには「これ本当に本物なのか?」なんて思ってしまう。本物に間違いないんだろうけど。 わざわざ本物を並べる意味ってなんなんだろう? それなりに混んでいる会場で もやもやしてしまう。
でもなんでそんなふうに思ってしまったんだろう? きっと展示場所と展示方法がしっくりこないからだと思う。
もともとのフェルメール作品が置かれている場所は、あたりまえだがきちんとした美術館ばかりである。壁や床がしっかりした材だというのはもちろん、美術館の醸す雰囲気というのも一流の場所ばかりだ。
それに比べると上野の森美術館のハリボテは如何ともしがたい。
上野の森にやってきた名作が、パンダ見物みたいになってるのを見ると(写真左)、現地で置かれていた時(写真右)との雰囲気の差が際立つ。現地では絵に寄れるし つくづく ゆったりしていたんだなと思う。
絵画鑑賞の感動の源泉は、絵そのものの魅力だけではなく、置かれた空間も見る人にすごく影響してるんだなと思い知る。
しかしそうすると、私たちはいったい何に感激しているのか?わからなくなる。
作品が置かれているところも含めて、感動の源ということは確かだ。上野の森のハリボテは、作品を展示するにはあんまりだ、ということも確かだ。
さて作品だけど、初期から晩年まで、大小いろんな作品を並べてみると、ほんとに同じ人が描いたのか?と思うくらい筆致が違う。
とくに大きな作品(左)は、ぼやっとしたタッチで、表情もどこかコミカルだったりする。フェルメール作品だからと言って全部が傑作じゃないんだろうな。
同時に、フェルメール以外の作家の作品を見ると、フェルメール作品が傑作な理由はなんとなくわかる。描くことの「やめ時」がしっかりしてる。絵に雰囲気をまとう感じがある。
しかし、それは今の価値観であり、ぼくの好き嫌いでもあるので、当時はそうではなかったのかもしれないとも思う。もっとその時代ならではの隠喩を込めた絵や、すごく描き込みまくった絵が評価されたのかもしれない。
フェルメールはいろいろな意味で特殊である。
絵を見ることや、傑作の意味なんかについて、いろいろ考えたフェルメール展だった。
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